異教徒狩りの始まった理由
当時は、キリシタン大名やキリシタンによって、寺社が焼かれたり僧侶が迫害されたり、逆に仏教を厚く信仰する大名の元ではキリシタンが迫害される事件が相次いでいました。さらに宣教師や商人によって日本人が奴隷として海外に売られる事件が発生し、九州でそれを目の当たりにした豊臣秀吉はバテレン追放令を発布したのです。ただし、秀吉は南蛮貿易の実利を重視していたため、この時点では大規模な迫害は行われませんでした。黙認という形ではありましたが宣教師たちは日本で活動を続けることができましたし、キリシタンとなった日本人が公に棄教を迫られる事はありませんでした。
しかし、豊臣政権の末期になってスペイン領であったフィリピンとのつながりが生まれ、フランシスコ会やドミニコ会などの修道会が来日するようになると事態は複雑化してしまいます。彼らは日本宣教において(社会的に影響力を持つ人々に積極的に宣教していくという)当時のイエズス会のやり方とは異なるアプローチを試み、貧しい人々の中へ入っての直接宣教を試みました。けれども、これらの修道会がイエズス会のように日本文化に適応する政策をとらずに秀吉を刺激してしまいました(たとえば日本では服装によって判断されると考えたイエズス会員の方針と異なり、彼らは托鉢修道会としての質素な衣服にこだわった)ことや、イエズス会とこれら後発の修道会の対立が激化した事で、日本での宣教師の立場は徐々に悪化してしまいました。
サン・フェリペ号事件(1596年)でスペイン人航海士が「キリスト教布教はスペインによる領土拡大の手段である」と発言したこと、秀吉自身が九州で日本人の奴隷貿易・人身売買を大々的に行っていたスペイン人やポルトガル人の貿易商と宣教師との関係を現地で目の当たりにしてから、宣教師とキリシタンの命運は決定的になってしまいました。秀吉は当時のキリスト教宣教の危険性を認識し、1597年には京都で活動していたフランシスコ会系の宣教師たちを捕らえるよう命じました。これが豊臣秀吉の指示による最初のキリスト教への迫害であり、司祭や信徒あわせて26人が長崎で処刑されました(日本二十六聖人の殉教)。