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ローマへ向かう

1614年、キリシタン追放令によってマカオへ追放された岐部は司祭になるべく同地でラテン語と神学を学びました。しかし、当時のマカオではペトロカスイ岐部をはじめとする日本人切支丹は招かざる客でした。お互いラテン語はできても、中国語と日本語はできないので意思疎通がうまくいかない上に、当時のマカオの中国人は反日感情が強かったのです。

倭寇と呼ばれた日本人が、この付近で海賊と同じような暴虐をはたらいたという記憶が、当時の中国人には生々しく残っていたからです。また、マカオのポルトガル人聖職者たちは、ペトロカスイ岐部たち日本人切支丹を神学を勉強させ聖職者にするには能力が低いと考えていたので、ペトロカスイ岐部たちの信仰心や向学心はみたされないままでした。

迫害を受けている故国の信者を励まし力づけるためにも何とか神父になりたいという悲願を抱いていたペトロカスイ岐部は、ローマを目指して旅立ちました。当時の日本人にとっての外国は、中国と天竺、さらに西に進むとスペイン・ポルトガル位の意識です。そんな中ペトロカスイ岐部はローマを目指したのです。